心の不協和音といじめの話
前に認知的不協和についてはこちらで紹介しました。今日も認知的不協和についての話です。
読んだのは認知的不協和について348ページぎっしり書かれているこちらの本
参考図書
「なぜあの人はあやまちを認めないのか 言い訳と自己正当化の心理学 キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵 訳
そちらの一節から引用
仲間はひとりの子に目をつけ、相手が何もしないのにからかったりしていじめていた。ーそのうち少年は自分の行動に不協和を感じるようになっていった。「ぼくはまじめな生徒なのに、どうして何もしないあんないい子にひどいことをしているのだろうか」。そこで不協和をなくすために、あの子はいい子でもなければ何もしないわけでもないと思うことにした。「あいつはガリ勉の泣き虫だ。それに、あいつだってチャンスがあればぼくに同じことをするはずだ」。
よくいじめはいじめられる側が悪いとかいう表現を聞きますが、第三者からならいくらでも解釈ができますが、当事者にとってはやはり正しいんですね。
というか正しいと思うように思考をねじ曲げているんですね。認知的不協和を避けるためにいじめっ子は自己正当化をしてしまったのですね。こうすればいじめっ子からすれば「いじめられる子が悪い」という構図が出来上がってしまうんですね。
つっ強い!認知的不協和による自己正当化かーこれ本当に強力なんですよね・・・しかもこれ周りができることってほとんどないところが問題なんですよね。
というか学校側が干渉しようとすると余計にいじめを助長する形になりかねない。非常に厄介な心理効果なんですよ。
自分で正当化していることに気づかないとこの罠から抜け出せる道はないですからね。大変です。
まとめ
認知的不協和を解消するために自己正当化をしてしまう。そしてこの自己正当化はあまりに強力でどんなものでも自分が傷つかないように解釈を変えてしまう。厄介ですね・・・。
いじめってこれからも無くならないんだろうなって思います。無くせはしないし、干渉はできないと思うけど未来の教え子がいじめられたときは話を聞いてあげられるうちの一人でありたい。
いじめじゃなくてこんなほっこりとした優しいいじめだったらいいのになと思うのに・・・ということで最後にこちら紹介で終わりたいと思います!
微妙に優しいいじめっ子
@motunabeeeeさんのツイート: https://twitter.com/motunabeeee/status/1083275999796547586?s=09